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2016.04.09 【紀元49日忌】

公開日: : 最終更新日:2016/04/16 兄弟会

紀元49日忌
平成28年4月9日(土)12時~16時
船橋・夏見の自宅において
紀元の兄弟・妻志津子・息子栄一郎夫妻・息子浩紀
般若心経を全員で唱え忌明けとする。
兄弟での思い出を語る、身内にはに甘え、外には徹底していい顔しいだった、紀元の思出話で花を添えた。
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陽子の話し言葉のメモ書きに注釈を入れながら掲載します。
一番多い九人家族で暮らしたのは二年間、七生美二歳、俊兄十九歳、この頃のことは余り覚えていない。
八人家族になったのは俊兄が東京に出た後、陽子小一の時、久司小三、功小六、紀中三。
七生美小一の時、陽子小四、久司小六、功中三、紀高三、全員學校に行ったのが一年間ありました。

紀兄との思い出は中学生の頃、となりの軒に吊るしてある、黍を冬の、雀を捕るのに黙って」失敬して、夕食を食べるときだったのに、父は兄を追いかけて、大柳川を渡ったとか、行ってお勝手の脇でハーハー息していたこと、その後殴られたり怒鳴られたりしたことはなかったと思う。

【夕食時今日の出来事、わんぱく盛の紀元のいたずらを祖母か報告すると父が怒るるパターン、父は怒りだすと何処までも追いかけても叱りつける紀は逃げまわる】

我が家は母屋にあった、お勝手を下の畑に移し、六畳位の狭い小屋と呼べるような団欒の一軒家を早川の清さんに(建てて)もらう、(旧お勝手は)後は小さな勉強部屋で(作り変え)四人の机が並んだ細長い窓の有る所から(四脚)並んで卒業すると上(に)がっていく。

【母屋に、お勝手(キッチン)が付随していた。手狭なため畑に今様にダイニングキッチンを父は立てた。この建物は我が家が土建業をしていた頃、鳥屋の母の実家の前の土手の工事を請け負った時の事務所の建物で、赤石切に移築したものを、再度お勝手を造るため移築したものです。大きさは、六畳二間ほど現在の勝手より少し広い大きさ】
【母屋のお勝手を改修して勉強部屋にして、上が卒業すると順に机が上がっていく】

【紀元とチョコレート】
口を開けてといったので、アンすると、はい虫下し、と言ってチョコレートのかけらを口に入れてくれた、苦かっただけの思い出。

【前の家の、体の大きな同級生をいじめた話】
つき屋のおばさんが(いじめられっ子のお母さん)夕方食事の時に来て、「さとし君をいじめて困る」時々現れて、申し訳ないと謝ったが、それに関しては帰った後皆で真似して怒られはしなかった。

【中学時代の思い出】
中学の時兄は花形で、学芸会の時ゾロットした着物を着て主役を演じていたと思う。
吹奏楽でトランペット吹いていた、小さいが力強い音を出していた。バレーも小さいのにはしつこかった(行動が素早い)。

【高校時代勉強セず】
高校に行くようになると、朝お弁当に卵焼きが入る、学校に行く前におかずだけ食べて、ご飯の入ったお弁当箱を机に隠して持っていかず発見、学校は行かないこともあったよう、昼食はどうしていたのだろうか?

年が離れているので、一緒に何かしたことはない気がする
後は皆も知っているように、沢山仕事をして、銀打の佐野さんはオシャレで小さいのにかっこ良かった。
私が、癌になった時は、お見舞いに来てくれても、小窓からちょっと中の様子を見て入って来ない。廊下で泣いていたようだ、陽子は、我が家の皆の病気を背負ってくれた苦しい思いをさせたと言っていた。その一年後に自分もすさまじい病気との戦いが始まる事は予想もしなかっただろう。

【就職難時代一時自衛隊に入った時、(のし入れ、ほうとうのこと)】
兄が自衛隊に入り家から離れた時母はのし入れを作りながら毎晩泣いていた。紀は鉄砲担いでさぼっていないだろうか、まともに生活しているだろうかと、のし入れをこねる毎に涙がボタボタとうどんの中に入るのを見ていた、小学校の私しょっぱい宝刀
のん兄ちゃんは、とても優しくて、おこりんぼで、いいかげんで、へらへらいていた、誰にもやさしく心をこめて接した、人をひきつける天才だった。病気になってからは、おもうようにならないもどかしさで、顔にいわをよせて、怖い顔でいらつくことも多くなったが、指摘するとすぐに笑顔になって、またすぐに強い言葉で激しく言う、又笑わせる、不思議な人だだった。愛されて愛されて一生懸命生きて、皆のためを思い、フェードアウトした、のん兄ちゃん立派でした。そしてやさしさを有りがとう。

そちら(冥土)に行っても、沢山のん兄ちゃんを待っている人達を笑わせて、皆に声をかけていることでしょう。沢山の思い出をもらいすぎました、只有りがとうです。すごく頑張っていたのに。

故郷に 心残して 春に逝く 陽子

春愁や 兄の声なき 宴かな 陽子

七生美
私の中の『のん兄ちゃん』なおみ

私と、のん兄ちゃんとは12歳離れているので、兄ちゃんと暮らした記憶がありません。
盆暮れに帰ってくると嬉しかったことは覚えていますが、何か話をしたのかは覚えていません。
笑っちゃうのは、就職試験で上京した時、武蔵境に泊まらせてもらい、翌日一緒に中央線に乗って、2人並んで吊革につかまっていたのですが、最後まで一言も会話することなく別れました。
世間知らずの私は何を話していいのかわからず、のん兄ちゃんも高校生の妹を持て余していたのでしょうか。
のん兄ちゃんと普通に大人の会話ができるようになったのは、かなり後になってからです。

特に、お母ちゃんの介護が始まってからは、共通の話題満載で一気に兄ちゃんが身近な存在になりました。
介護しながらの野菜作りは熱心に協力してくれ、収穫の喜びを体で表してくれました。
みんなを喜ばせたいと思う兄ちゃんの優しさと面白さは、その後の中国旅行で実感することとなります。
兄ちゃんに勧められて”蒼穹の昴””珍妃の井戸”を読んでいたおかげで、初めての中国旅行は、春児の時代に舞い降りた感があり、今までに経験したことのない充実した旅行となりました。
又、中国東北地方の旅行では、”中原の虹”を読むことによって、満州の草原を駆け巡った騎馬民族の活躍した清朝初期の時代と、日露戦争を体感できました。
又、私の還暦祝い韓国旅行では、当時韓国時代劇を楽しんでいた私にとって、これまた韓国の三国時代、朝鮮王朝時代を体感できるすてきな旅行になりました。

なんと言ってもそれぞれの旅行での、のん兄ちゃんのコメントが笑えます。

【 絹の布団やさんで姉と私が絹の布団を買った時 】
「いいか、中国のお土産はぜぇ~んぶニセもんだど。
そもそも隣に建っている北京銀行どぉって怪しいもんだど」

【 カンフーミュージカル”住職の一生”を見た感想を皆で言い合った時のコメント 】
「ひったんもん!」

【 飛行機の中で、『乱気流のため皆さまシートベルトをお締めください』とのアナウンスに 】
「よーこー、シートベルトしてる~?」   陽子「してる~」
「兄ちゃん、シートベルト足りてる~?」  俊一郎「足りてる~」

【 瀋陽行き搭乗手続きの荷物預け時、受付嬢から誰の荷物か聞かれて 】
「佐野俊一郎のです! 長男です!」

【 高反発枕を買った時 】
「隣に北京銀行もなかったし・・・」
【 お茶の試飲でしつこくお茶を買うよう勧められた時の断りのセリフ 】
「太るお茶はないですかねぇ。あったら買うんですけどねぇ」

【 “1人ぼっちにしないでおくれ~”が愛唱歌の兄は「1人が好き」といった私が意外だったらしく、翌日バスの中で手帳を探している私に 】
「ねぇ、なおみぃ、1人になりたいところを悪いんだけど何探してんの?」

【 韓国へ出発するとき功・陽子・七生美、間違って到着ロビーに行ってしまった時 】
「おめんとうな、これから出発するっちゅうに到着ロビーへ行ってどうするえ」

【飛行機に乗る前「トイレ、行っといたほうがいいかなぁ」と聞くと】
「つんむるかどうかは自分で判断してください」

中国旅行から帰ってからのメールでの呼称は、”アーゴ””りんりん”。
四季折々、幼いころの故郷を思う心情がメールで綴られてきました。
のん兄ちゃんによると、”子ども天神” “菜の花畑” “どいの橋の天家” “太郎坊さんの落下傘取り” “中秋節の団子飾りの盗み”すべてをこの世の極楽浄土と表現していました。
幼いころの故郷が大好きだったのん兄ちゃん、今は、本物の極楽浄土にいってしまいました。
両親、お金ばあちゃん、松枝おばさん、郁美さん、先に逝ったお友達たちを楽しませてあげていることでしょう。

もう1つ、のん兄ちゃんとの大切な思い出、それはトランプの手品です。
10年程前だったでしょうか。もの陰で1度だけ説明を受けましたが、それ以降この手品に関して2人で話すことはありませんでした。
“始めるぞ”という合図もなくいつもいきなり始まって、終ってからも知らん顔。
この手品は、「それではみなさん、これからトランプの手品を始めます」と兄ちゃんが言った瞬間、私は答えになるものを素早く物色します。それが何かを兄ちゃんが理解してくれないと成り立たない高度?!な手品なので、時々失敗はありましたが2度目はたいていOKでした。
頭を瞬時に使うことと、暗黙のやりとり、その緊張感と秘密さ加減がなんとも心地よいものでした。
みんなの驚く様子を見て、人をだます?ことがこんなに楽しいことだったとはと、だます側に回った楽しさを体感しました。
話術の得意なのん兄ちゃんはさぞや楽しかっただろうなと思います。
いつか私ものん兄ちゃんの元に行った時、また一緒に、あの世の人たちを楽しませたいです。

とみさんがのん兄ちゃんを偲んでこの前言っていました。
「いつだったかプールの方から帰ってくる紀元さんと話をしたことがあったけど、夕日を背にした紀元さんが哀愁を帯びていてとてもすてきだった。川戸の衆(し)はこんな山の中で育ったとは思えないくらいみんな洗練されているよね」と。
去年暮れののん兄ちゃんのメールにも「この6人の兄弟姉妹は世界一だ」と書いてありました。
私もそう思います。

のん兄ちゃん、世の妹たちが誰も経験できないようなすてきな思い出をいっぱいありがとう!

花吹雪 思わずアーゴを 探しけり 七生美

七七忌 兄の遺影に 桜舞う    薫

久司さん
お兄様方いろいろと有難うございました。2月27日に紀兄の突然の訃報を受け動揺した中で、様々な行事が進行し心の整理をする時間がありました。49日の法要は身内の者だけでささやかながら落ち着いて執り行われ、紀兄の生きざまを家族と一緒に話せて、一区切りがついた気がします。
 終わってからの喫茶店では、山梨の相続手続きの完了や、俊兄の病気のことなどの情報共有が出来ました。令子姉さんも一緒に話が出来たことは、兄妹の考えを理解してもらえ本当に良かったと思います。具体的な手続きの完了で当面の課題がクリア出来、みんな少し肩の荷が軽くなったと思います。
 紀兄の逝去からいつ何が起きても不思議ではない世代に今自分たちがいることを身に染みて感じた日々でした。陽子さんや七生美さんはショックだったようですが、大丈夫です。まだ兄ちゃん達はしばらくみんなの心の面倒は見られるつもりでいます。
 これからは、自分に出来ることを楽しみながら毎日を過ごしましょう。俊兄ちゃん令子姉さん、功兄ちゃんがいい手本となります。素晴らしい兄妹に巡り合ったことを喜び、その一角を担っていることをお互いに誇りに思って全身で生きていきましょう。有難う!合掌
平成28年4月10日 久司
のりの風 五開にそよげ 紅梅忌  硯久

合掌 俊一郎

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